子供が留学したいと言ったら・・・ 塚本マナミに聞いて!

こんにちは!

前回は、子供が留学したいと言ったら、、、でしたね。

一番心配なのは、留学先の安全の確保ですから、それについては、たいがいの場合、キチンと斡旋団体が犯罪なんか到底起きないような田舎の家庭を斡旋してくれるので、100%じゃないけど概ね大丈夫!ってところまでした。

 

今回は、場所は安全でも、人はどうなの?ってお話です。

 

いくら良い環境のホストファミリー(受け入れ家庭)が、見つかったとしても人と人との交わりですから、性格が合わないってこともあります。

嬉々として海を渡ってみたら、

 

え~最悪、この人たち!!全然想像してたのと違う!!!!んもうやってられない!!!

なんてことは実はよくあります。

そういう時の、まずお勧めは、その受け入れ先のご家族(ホストファミリー)と話しあうこと。家族として迎えてくれているのですから、まずは困ったこと、苦情も、家族と思って真っ先に相談することです。かえってホストファミリーとの絆が深まることが多々あります。

それでも納得できないときは、斡旋団体の担当者に相談、彼らは大概、人格者ですから、親身に相談に乗ってくれます。そこで、お互い歩み寄れる方法を考えます。生活様式の食い違い程度なら、ちょっとした相談で解決することもたくさんあります。そんな相談の順番がベストです。

その結果、ホームステイが継続されれば、それでよし。どうしてもうまくいかない場合は、ホストファミリー交替もあります。そういう場合は、斡旋団体の双方の担当が間に入って話し合いがなされます。

幸い私は、1年間同じホストファミリーにお世話になり、素晴らしい一年を過ごせましたが、その間、交換で迎えた日本の私の家族が受け入れた留学生は、何回かホストファミリーを交替して、うちが最後の受け入れ先で、うちが断ったら強制帰国になってしまう少年でした。

本来なら、交換の当人が自国にいる間に、留学生を受け入れるものです。

なので、私が留学に行く前に、一人、アメリカのテッドという18歳の高校生を3か月受け入れています。(その時は、その斡旋団体ではアメリカの留学生は3か月と決まっていました。)とても行儀のよい誠実な青年でした。彼のエピソードはまた後日にしますが、そんなわけで、私の家族は私がアメリカに出発する前に、既に役目は果たしていたのです。

でも、日本側の斡旋団体の中核にいる人が私の母の友人で(そのおかげで私も留学しました)、「千葉に、これで、代わりのホストファミリーが居なかったら、強制帰国しなければならないオーストラリアの男の子がいるんだけど、もう最後の頼みの綱なんで帰国まで4か月、頼めないか・・・」との依頼でした。

うちはアメリカ留学なので、そもそも関係ない話でしたし、私も留学中で不在です。

オーストラリアからの留学生は、毎年1月から12月の一年間でした。その話が持ち上がったのは、私が8月に出発した翌月の9月のことだったそうです。

私の父は船乗りで、その時はちょうど乗船中。家には、母と大学生の兄だけでした。

母が真っ先に思ったのは、私のことでした。

自分の娘はどうやら円満に留学先のホストファミリーにも恵まれたみたいだが、これから長い一年の間にトラブル起きて、なじめなくて、たらい回しにされることになってしまったら、どんなに心配なことか。このオーストラリアの男の子の親も、すでにうちが3軒目。どんなに心配していることだろう、他人事とはとは思えないと考えまして、年の近い息子(私の兄)もいることだし、うちが断って強制帰国になってしまうなら、まずあってから決めようと思ったそう隠して預かるのは、勇気の要ることだったと思います。

そしてやってきました。我が家にオーストラリアからのピーター君が。

 

続きはまた次回。

 

今日も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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子供が留学したいと言ったら・・・ 塚本マナミに聞いて!

こんばんは!

 

国際色豊かに育った塚本マナミです。

自分や家族の国際交流経験についてのブログを始めたら、

自分にとってはありふれた環境でも、

こういう情報が一般的でない方も多いことを知り、

もし、あなたのお子さんが、ある日、海外留学したいと言ってきたら参考にしてほしいという思いで書いていきます。

 

ただし、私が経験したのは、高校生の時にホームステイの交換留学生としてアメリカ留学1年間。そして今25歳になる娘を、高校の時にオーストラリアに3か月、同じくホームステイ交換留学生として送り出した経験。

 

 大学生ならば、年齢的に社会人にもなれる歳ですけど、高校生は、まだ、やっぱり一人で送り出すのは心配ですよね。私が高校3年生でアメリカ留学を決めたとき、当時の担任の先生がとても心配して、大学になってからでもいいんじゃないかと反対しつつ送り出してもらいましたけど、無事帰ってきてよかったと、もう四半世紀以上も前のことなのに、いまだに会うたびに言われます。あの時相当心配したと。

確かにね、ちょうど私が留学する前年、事件があったんです。アメリカの西海岸で、日本人の高校生の留学生が射殺されたことが。ご家族にとっては許しがたいこととお察しします。でも身近にいても事故に遭遇することはあります。100%安全な世の中はないのですから。

たしかに銃の国アメリカですが、わたしが見たアメリカは、ほんとに日本の地方都市と何も変わらないのどかさでした。前回のブログの通りです。だって雪が大量に降ったら、排気ガスがかった表面を除いて、ボールにタップリ入れてね、牛乳とお砂糖をかけて食べちゃうくらいの澄んだ空気の町でしたから。

高校生の場合の留学は、交換留学斡旋機関などのホームステイ留学であれば、安全第一前提ですから、都会住まいを割り当てられることはまずありません。

ニューヨークの摩天楼のタワーマンションの家庭にも、スラム街の家庭にも割り当てられることはないでしょう。相当田舎の、日本人を初めてみるような人々の町や村に住まわされます。そっちの可能性の方が大です。僻地じゃないですよ、比較的安全な健全な家庭です。

現地の斡旋の担当者も、受け入れ先のホストファミリーとは何度も会って訪問して、厳選します。田舎といっても、知的レベルが高い家庭に配置。

日本もそうですが、アメリカやオーストラリアでもホームステイの受け入れは、ボランティアなのです。交換留学なので、成り立ちます。ボランティア預かれる生活水準の家庭であるのが条件です。たまに、キチンとした受け入れが見つからない場合は、現地の斡旋担当の知り合いの裕福な家庭に預けられることもあります。

 

ということで、あなた、あなたの子供が留学したいと言ったら、すぐに賛成できます?

 

金銭的な負担も心配かもしれませんね。

それよりも、かわいいわが子に旅をさせること自体、不安一杯ですよね。

 

余談ですが、わたしの25歳になる娘は、大学時代にピースボート世界一周の旅に3か月、大学を休学して行ってきましたが、3か月間の船旅、わたし、心配で心配で・・・。

 自分が未経験なことって、心配ですよね。でも、娘が17歳にしてオーストラリアに留学したいと言ってきた時には、喜んで送り出せました。自分が通ってきた道でしたから。

 

次回はもう少し突っ込んだ内容を書きたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

合わせて以下も興味があればお読みください。

 

ameblo.jp

fanblogs.jp

 

塚本マナミの国際交流覚書~マイナス20度!~

塚本マナミです。

 

このブログは、今から海外留学したいな~、とか、ホームステイってどんな感じ?

とか、ホームステイで預かるの不安だな~とか、子供が行きたがってるけど、大丈夫かな~、それらをすべて経験した私が、あなたの参考になればと思い、書いてます。

 

うちは親子二代で、それぞれにアメリカ、オーストラリアへ留学し、高校時代を海外で過ごし、過ごさせたので、送り出す側、送られる側の両方の思いもお話できると思います。

 

そしてもっとも大きな目的は親に対する感謝です。

このアメリカ留学という経験をプレゼントしてくれたことをもう一度、文章にしてみたいと思います。

 

Facebookで同時進行で、英訳して、わたしのアメリカの旧友たちにも届けたいと思います。

 

なんの取柄もない人間だと思ってましたが、

大バチ当たりでした。

 

両親から貰ったこの健康な体(重量はオーバー⇒詳しくはこちらhttp://fanblogs.jp/wakuwakubijin/)、インフレンザにはいまだかつてなったことありません。

 

あと、もう一つ、大きな大きな宝物を親から頂きました。

アメリカ留学です。

 

回想という形になりますが、思い出した順に書き連ねてまいります。

 

もう、いまから30年は経っています。

ですが記憶は色褪せることはありません・・・

 

 

まずは、-20℃ ・・・を初めて体感した時のお話です。

 

1983年のちょうどクリスマスイブの日、屋外は-20℃を記録しました。

わたしは、ホームステイ先の、アメリカはメリーランド州クイーン・アンズ郡センタービルの家で、クリスマスの準備にいそしむホストファミリーたちにつづき、なんやかやとみようみまねで手伝いをしていたと思います。

 

メリーランド州は、小さな州で、州としてというよりは、首都ワシントンD.C. のそばと説明した方が、分かりやすいですね。大西洋に面した州です。

とても日本に似た気候で、四季があり、夏はとても蒸します。冬は、北海道くらいの寒さでしょうか、暖房がどこも完備してるし、暖炉がとても暖かいので、屋内では半袖でも大丈夫ですが、

さすがにその日は-20℃。

ホストマザーのマムに言われて外に薪をとりに行きましたが、30秒と立っていられないほど、からだが痛いです。

日本ではおよそ無理な体験でしたので、ホストファミリーが大騒ぎしてわたしに教えてくれたことを覚えています。

 

最近、わたしの住んでる埼玉が、この寒波で、-9.8℃を記録したとか。

かなり皮膚が痛い感じでしたが、思わず、メリーランドの寒さを思い出しました。

もっともメリーランドでも、めったにない気温だったようですが。(笑)

 

 

日本はね、お正月はお休みですよね。

私が居たアメリカは、お荘月は普通に学校、クリスマスが一大イベント。元旦から通学したのは、最初で最後の体験ですね。(笑)

 

イブの24日は教会で過ごすか、家族とエッグノック(ちょっとお酒の入ったあたたかいミルクセーキナツメグ少々。玉子酒みたいな感覚かもです)を飲みながら暖炉の前で、キリストの誕生の時間を待ちます。ごちそうは食べません。

そして家族だけのメリークリスマス。

 

親戚が集まるのは明けてクリスマスの午後です。今は時代がかわったかもしれませんね。

 

クリスマスの朝は、お楽しみのクリスマスプレゼント開封タイム!

リビングルームを占領している天井まであるツリーの根っこのあたりに、何十個ものクリスマスプレゼントが置いてあります。多くは、マムが家族のために12月になってから買い始め、ツリーの根っこのあたりにひとつひとつラッピングしては、置いていくのです。マムが日々、わたしたちの行動をみて、必要だな~と思われる日用品。新しいガウンとか靴とか靴下、セーター。。。そんな感じです。あ~、見ててくれたんだ~♡と、心が温まります。すべてかわいくラッピングしてあります。クリスマスまで内容は秘密です。だからみんな楽しみなのです。他は家族がそれぞれにあてて用意したプレゼント。祖父母からや、親戚のおばちゃんからのプレゼントもあります。

 

 

1983年のアメリカでは、クリスマスまでに、いろんな種類のクッキーを徐々に準備しましてね、クリスマスバケーションの期間は、キレイにダイニングテーブルに、何種類も常備されるのです。すべて手作り、マムが、コツコツと時間を作って大量に焼いていきます。なんとかおばさんのクッキーとか、日本でもありますよね、そんな感じです。テーブルに足りなくなると、また足して、

まるで日本の三が日のおせち料理のようです。もちろん私もお手伝いしました。

わたしは、ダイニングテーブルを通り過ぎるたびに、お気に入りのジンジャークッキーを口に放り込み、幸せいっぱいで、初めての、アメリカでのクリスマスを楽しみにしていました。

 

 

今日はここまで。

明日も、どうぞお楽しみに♪

 

よければ、こちらもご覧ください。

 

 

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